#218 「思い込んだら試練の道を」

 昨日はまる一日、巨人の阿部慎之助監督の話題でつどい場カフェでも家に帰ってからももちきりだった。私自身のこの事件に対する(まあ事件だろうねえ)考え方や気持ちも変化してきたが、やはり同氏への同情の念はぬぐえない。「巨人の星」がある日突然ぷっつりと途切れた瞬間だった。

 まあどこのメディアを見ても、少し違った側面から報道されることもあったとしても、この事件は「不祥事」、「傷害事件」、「暴行事案」などという名前がついて報道されている。阿部氏が「公(おおやけ)の人」であることは間違いないので、こういうタイトルをつけなければいけないという取り決めがあるのかもしれないが、それ抜きに考えれば、親子喧嘩に「傷害事件」という名前がついたらある意味大変なことだと思う。

 昨日はSNSも騒がしかった。阿部氏養護の発言が多かったのも特徴的だった。ただ、ほとんどの発言には「暴力は許されないにしても・・・」という但し書きがあった。そりゃそうだ、そんなの言わなくても当たり前のことだ。しかし、では暴力とはどういう場合にそういわれるのか、どういうものを暴力と捉えるのか、その辺りも本当の事情を知らなければ言うことでもないような気もする。「巨人の星」を夢中になって見ていたころ、「星一徹は家庭内暴力でけしからん」という見方は少なくともしたことはなかった。

 しかし所詮、私も野次馬の一人。阿部氏の家庭内状況もわからないのにあれやこれや言えない。でも野次馬だから、ついいろいろ想像して言ってしまう。こういう事件は本当の根っこのところにある、なんて言ったらいいのか、「根源的な姿」がわからないまま、まわりの野次馬が作ってしまうところがあるので、気を付けなければいけないとは思う。

 野次馬発言で、また根拠もない忠告や逆に誹謗中傷などで傷つく人がいることを考えないといけないかと思う。戦争で流れ弾があたって負傷するようなものか。違うか。

 でも今回の件でいくつか感じたことはある。それは、子ども世代のAIの使い方だ。それはAIが出す答えには、ときに誤情報もあるとかそういったことではなく、何かを考える時にまずAIに聞くというその行動そのもののことだ。そしてAIが出した答えに疑いを持たずにそのまま従うということが「世の中のスタンダード」になってしまっていないかということだ。もうひとつが、何度も書いているように「コンプライアンス」の人間にとっての価値についてだ。子ども世代にとって「まずはコンプライアンスに従って判断する、行動する」ということがスタンダードになってしまってはいないか。それは、今まで築いてきた人間臭い生身の関係性をときに壊してしまうことにならないか。それは大人がよく教え込まなければいけないことではないか。そんなことを考えた。

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