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#055 「なぜ、オッサンはダジャレを言いたがるのか」
「なぜ、オッサンはダジャレを言いたがるのか」。これは、かなり壮大なテーマとして論文を書きたいくらいですが、とりあえず今回は軽くまとめてみたいと思います。
まず、オッサンのダジャレが世間一般にウェルカムされているかといえば、ほとんどの場合はその逆でしょう。それが、ユーモアとか楽しいジョークであれば、普段のおしゃべりでも、オフィシャルな講演でも、会話の中のひとつの武器として非常に有効ですし、それが上品で気が利いたものであればあるほど、ウェルカムされ、その人の品格も上がるでしょう。
でも、なかなかそれはハードルの高いことです。そこでオッサンはダジャレに走るのかなと考えることができるわけです。でも私は、その場に対応するために意識的にダジャレを活用するオッサンはごく少数派ではないかと思っています。毎日の呼吸やまばたきやおならやゲップのように、ときに無意識に自然に出てくるものじゃないかな。私個人の場合から推測することですので、例外も多々あるのかもしれませんが、大きく間違ってはいないと考えています。
それはその人の「体質」にも関係しています。体質というのが大げさであれば、くせとでも言いましょうか。ある種の人々は、耳から聞いたサウンドが、すでに記憶の中にある語彙のサウンドと自然に面白く重なり合い、それがダジャレとなって、ほとんど無意識に口から出てくるというシステムだと思います。もちろん、いくら無意識でも、それが面白いかくだらないかは瞬時に判断して出しているはずです。
そのような体質は子供や女性にはなくて、果たしてオッサンだけなのでしょうか。きっと子供や女性もそういう人はいるに違いありません。しかし、子供や女性が普段の会話の機会に事欠かないのに比べて、オッサンは往々にしてコミュニケーション難民のことが多く、孤独なことが多く、なかば「反射的に」ダジャレでコミュニケーションを図ろうとするのだろうと思います。つまり、ダジャレはオッサンのコミュニケーションツールのひとつです。
ダジャレも巧妙にはまったものは、まれに称賛を浴びることもありますが、ほとんどのダジャレはスルーされます。ダジャレがどれほどチヤホヤされるかは、時代の流れや人同士の関係性にもかかわってきます。今のZ世代などにとっては、ダジャレはそもそも価値を見出せないものかもしれません。でも、怖い上司のダジャレには称賛の言葉を送らなければいけないかもしれません。で、私が職場の長だった時には見事にスルーされていましたが。
いやはや、もはやこれはブログというより小論文になってきましたよね。そもそもブログって何を書くのでしょう。なんだか分からなくなってきました。次は私のブログについての思いなどを書いてみたいと思います。
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