#215 「正常性バイアス論」

 実はブログを書くときは、いくつか同時に書き始めて、少しずつ書き積んでいくということがある。売れっ子作家が四本くらい同時に連載を抱えていて締め切りに追われるのとはだいぶ違うが、アイデアが湧いたときに書いておかないと忘れてしまうというのと、かといって毎回最後まで完成させるほど持続力も忍耐力もないし、結果的にいくつかのブログの切れ端が残ることになる。

 それで、この「正常性バイアス論」は書き始めてもう1か月くらい寝かせたかもしれないが、逆に寝かせすぎて、かなり(自分の中で)「香が抜けた」感じがある。でももったいないのでちょっと頑張ろうと思う。「バイアス論」は論文でもないが、最後に「論」をつけて「バイアスロン」とするとウィンタースポーツのように聞こえて面白いので、あえてつけている。

 「正常性バイアス」、この言葉は少し前、おそらく「コロナ禍」のころからぽつぽつと耳に入り始めてきたが、おそらくもっと前からあったものだろう。ちょっと調べてみれば、東日本大震災やさらに前の災害の際に課題となった人の心の動きのことを言っていて、「社会心理学」ないしは「災害心理学」で定義されている心理学用語だということだ。誰が最初に唱えたなどの記述は見つからなかった。

 正常性バイアスというのはどちらかと言えば批判される、揶揄される対象となっている。なぜなら、本当の危機の際にこのバイアスによって逃げ遅れたり、被害に会ったりする可能性が十分にあるからだ。実際に先日、神戸でもグラグラッと突然揺れたが、その時ギターの練習をしていた私は一瞬立ちすくんで家族の様子を見に行ったが、動揺したのもつかの間、すぐに忘れてまた普通の生活に戻った。「ギターを放りっぱなしだったか」気になったが、ギターは(知らぬ間に)ちゃんとスタンドにかけてあり、意外に冷静だったことに我ながらホッとした。「ほら、大丈夫。まあ単発のもので、もうしばらく来ないだろう」とタカをくくった。正常性バイアスが働いた瞬間だった。

 正常性バイアスは、それがあることで人間が常に冷静でいられる良い面もある。新型コロナのときも最初は、あのダイアモンドプリンセス号のニュース映像も、まるで映画を観ているかのような別世界の出来事のように感じて、「明日は我が身」と思っていた人はほとんどいないはずだ。

 このアメリカイラン戦争もほとんどの人は遠くから見ているはずである。それが実際に「我が身」に感じられるようになるのは、ガソリンの値段が上がったり、石油製品が品薄になったり、おやつのカールのパッケージが白黒になったり(あまり実生活には響かないが)身の回りに自分に影響するような変化があって初めてだ。一番考えにくいことは、こんなに世界情勢が不安定なのに、円安が進んだり、株価があがったりすることだ。これも正常性バイアスのなせる業かもしれない。単なるひがみかもしれないが。

 正常性バイアスはすべてが批判されることではなく良い面もある。でもバイアスがバイアスのままで放置されると、ちゃんと見れば見えるものが見えなくなるのも確かだ。それが私のバイアスロン。(写真はJOCサイトより)

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