受付時間 9:00~18:00
#121 「プロフェッショナル~謝罪の流儀~」
「謝罪」というテーマについては今までに何度かふれたと思います。夕方のニュースだけをとっても、「誰かが誰かに謝罪している図」を見ない日はないと言ってもいいと思います。一昨日のニュースでも二組の「謝罪」を見ました。
そのうちの一つは、とある高校野球の強豪校の監督さんの部員への行き過ぎた指導問題ということで、その高校の校長先生が神妙な顔をして謝罪していました。当の監督さんは画面に出てきません。暴力問題とはとある課題を怠った部員二人の頭をたたいたというもので、監督さん自身からは「何とかさせたいと思う熱い想いが強くなりすぎて指導が行き過ぎた、反省している」というコメントがあったようです。
今の世に「謝罪会見」という言葉は当たり前の用語となって鎮座しています。その中での「謝罪」の仕方には一定のルールがあるようにみえます。
まず、昨日のニュースの場合の会見は校長先生一人でしたが、だいたいの会見は数人の関係者が並びます。その組織(その謝罪内容に関係する機関)のトップが中央に、その周りを次席や事務局担当者などが固めます。そして、全員が一斉に立ち上がり、トップの「このたびは・・・」という定型の句を皮切りに、「まことに・・・」を合図にして全員が一斉に頭を下げ、その謝罪内容の重大さに比例した一定の時間、頭を下げたのち、(誰かが合図しているかのごとく)ほぼ同時に頭を上げます。もちろん、全員が神妙な顔つきをしており、ニヤニヤしている人等一人もいません。
その頭を下げる角度、また下げて保っている時間により、視聴者はその謝罪の「本気度」を感じるはずです。言い換えれば、謝罪をしている側の、自分たちが本当に悪いと思っているのか、あるいは「とりあえず謝っておかないと世間的に示しがつかない」という建て前で行っているのかが、おのずとその仕草に出てくるような気がします。
ときに不思議に感じることは、俗にいう「ハイステイタス」の人たち、国の大臣級、地方自治体のトップ、会社でも大企業といわれるところのトップなどが「謝罪会見」を行うときは、その頭の下げ方、下げている時間は素人目にもわかるくらい浅く短く、時に頭を下げたのかどうかもわからない程度の時があります。たとえ謝罪内容がとても深刻なものであっても。本当は直接の担当者の問題だが、私はとりあえず代表して謝ってやっているというふうに。
これは、見ていて明らかに違和感を感じます。「実るほど首を垂れる稲穂かな」という句があります。作者不詳のようですが、これは素晴らしい句ですよね。本当にそういう姿は理想的だと思います。もし、この「ハイステイタスの人はお辞儀はとりあえず形式的に」というようなルールがあるのだったら、この姿に照らし合わせると、このルール自体、一度ぶち壊してもらいたいと思いますよね。

いずれにしても謝罪、そして形骸化している謝罪会見にはどうしても疑問と違和感を感じてしまいます。誰に向かって謝罪しているのか、何のために謝罪しているのか、謝罪してどうしたいのがよくわからず、儀式化しているような気がして仕方ないからです。おそらく、謝罪会見の会場で「鬼の首を取ったような顔をして待ち構えている」のは取材陣(マスコミ)がほとんどだと思います。そして同じく「悪を征伐するような」質問を投げかけます。まるで自分たちは国民の代表であるかのように。
物事は決して「悪いこと」「良いこと」に二分されるものではありません。それが「悪いこと」だから謝る、「良いこと」だから称賛するという単純な構造ではなくて、その間のスペクトラムを感じ取って、個別にその行為がどういう意味だったのかを考えることの方が大事なんじゃないでしょうか。「あそこの誰それはあんなことしたのに、謝罪もしていない」などと謝罪の有無で物事の幕引きを図るのはやめたいです。悪いことをしたほうも「ここが悪かったから、これからはこうしたい」と実際の当事者に真摯に向き合って、きちんと説明する、それこそプロフェッショナル、謝罪の流儀ではないかと思います。
コメント