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#105 「私たちの95117」
その日、午前4時46分(日本時間の午前5時46分)、私たちは赴任先のシンガポール、オーチャード通りのすぐ近くにある高層コンドミニアムの4階の部屋で、まだぐっすりと夢の中でした。毎年のように私たちを訪問して旅行していた両親が、その前夜に何回目かの来訪をし、ご馳走とお酒の晩餐の余韻もまだ冷めやらぬ時間だったと思います。
その時刻からそれ程たたずに、突然リビングの電話が鳴り響きました。携帯電話は当然まだ普及していない時代に突然けたたましく鳴り響いたリビングの電話。眠い目をこすりながら受話器を取ると、弟の落ち着いた声が(弟は一大事でも決して慌てふためくことはなく、のんびりした声で話すたちでした)。その時も変わらず落ち着いた口調で「兄貴、大変だ。すごい地震が起きた」と言うので、私は思わず「こんな早い時間にふざけるな。冗談言うな」と言ってしまっていました。
しかし、当然相手は「冗談じゃない」と繰り返すし、とりあえず一度電話を切って何が起きたのか頭の整理も含めて、いったん落ち着こうと思いました。ホントに本当か?気になるのは、まず神戸の家の具合と近所や知り合いの人たちの安否でしたので、両親や妻に知らせた後、あらためてこちらから弟に電話を入れました。しかし当時、姫路に住んでいた弟への電話は、何度鳴らしても、もう通じなくなっていました。
シンガポールというのは大変進んでいる国で、NHKは時間差はあってもちゃんと写るし、朝日、読売や日経と言う大手の新聞は午前8時頃には、その日の新聞が刷り上がって読めるという大変恵まれた環境でした。新聞は会社でとっていましたが、待ちきれないので途中のスタンドで買い、記事を見ながら、何とも言えない「心が壊れそうな暗澹たる気持ち」になったのを鮮明に覚えています。まだほとんど詳細はわからないけど、神戸はこれからどうなるのか、まだ大きいのが来るんじゃないか、世界の終わりが来るんじゃないかなどと考えると、本当に周りの景色が灰色になって見えたのを覚えています。
状況が少しずつ分かってきて、飛行機のチケットもとれたので、いつもなら1か月程度は滞在する両親も、約1週間でそそくさと帰って行きました。関西空港からの帰り道が大変だったと後で聞きました。自宅は、弟が調べに行ってくれたら玄関が開かなくなっており、近隣の方と一緒にこじ開けてくれたんですが、その後は逆に閉まらなくなったということでした。防犯上の意味もあって心配だったのと、家の中の状態が気になっていました。家は建物自体は大丈夫でも床や壁に大きいひび割れができており、もともと少し傾斜になっていた床が、ボールがコロコロ転がるくらいになっていたとのことです。「半壊」扱いを受けることができたと聞いています。親類に大工さんがいたので、修繕は意外に早かったと思います。
私が震災後初めて神戸に戻れたのは、その年の5月、本社で定例会議があった時でした。会議後の時間をもらって、実家に戻り、三ノ宮あたりの風景を見たり、実家の回りを歩き回ったりしましたが、あちこちにブルーシートがかかっていて、時間はかかっても町は完全に復興途中だということがわかりました。その時分には、想像していた暗鬱としたイメージではなく、さわやかな季節感も重なって、町全体が少し前向きに見えてちょっとホッとしました。
いずれにしても、実際に現地で震災を体験しなかった私たちは、毎年117が来て、被災された方、家族が亡くなられた方、救助に携わった方、支援に奔走された方などのお話を聞くたびに、本当に申し訳ない、いたたまれない気持ちでいっぱいになります。
でも私たちは、南洋の島から自宅や回りの皆さんや神戸阪神の人々の無事を祈り、復興に願いをかけたこと、またこれからの防災について関心を持ち、自分事として関わっていくことで「117チームの一人」に入っていると思うようにしています。
今年、阪神淡路大震災は発生30年目の節目を迎えました。そしてその節目は、私たちにとって、さらに震災当時のことを知り、学びを深めるためのとても良い機会になっています。
(写真は神戸新聞NEXTネット記事より)
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