#014「ふてほどにもほどがある」

人気ドラマの「ふてほど」こと、「不適切にもほどがある」が全編を終えました。実は私はドラマは何でも録画して後から見るたちで、全10話のうち、やっと第8話まで見終わったところです。これまでについて言えば、その都度、共感したり共感できなかったりしながらも概ね楽しく見させてもらっています。

ただ、1986年(38年前)と2024年(現代)の間を主役級がタイムマシンで行ったり来たりするこのドラマに、作者の「ねらい」があるのは確かですが、「あの頃はよかった」といいたいのか、逆に「今のままでいい」といいたいのか、その辺りの主張はあまり明確にされていないように思えます。あるいはあえて明確にせず、その答えを視聴者に投げているという「ねらい」もあるのかもしれません。

実のところはどうなんでしょう。この番組は、やはり今のコンプラがんじがらめの世相を皮肉り、嘆いている意味の方が強いのでしょうか。昨夜見た第8話「一度しくじったらダメですか」の回は、原作者にその気持ちは強く表れていたような気がします。

正確には覚えていませんが、38年前に「不倫」という言葉はすでに流行していたように思います。調べたら、金妻で社会現象にもなったシリーズ「金曜日の妻たちへ」が放送されていたのが1983年でしたから確かでしょう。不倫自体が流行していたというのも嫌な話ですが、少なくとも不倫という言葉は流行していたと思います。当時、不倫は、批判の対象というよりも、「トレンド」、ときに「男の甲斐性」そうでなければ「切ないなれの果て」「悲劇の幕切れ」のようなイメージとともに捉えられていたのではないでしょうか。今の時代に「男の甲斐性」なんて言おうものなら、ふてほどスタンダードで言えば、完全にアウトですね。

今の時代で不倫や男女スキャンダルというものは「コンプライアンス的にどうか」という捉え方を一番にされ、特に著名人のスキャンダルは、ネットから拡散し、批判が限りなく続いていくことによって、当事者は孤立し、その世界から抹殺されていくという構造を、第8回の「ふてほど」は表していました。その負のスパイラルの発端は「コンプラ違反でしょ」と指摘することから始まると思いますが、ではその「コンプラ違反」によってそれを指摘している人々はどういう被害や苦しみを受けているかはあまり問題にされていないですよね。あたかも「コンプラ違反」を指摘することが正義で、正義のためにやっているのだから、それが何かということなのでしょう。ただ、そもそも正義って自分が部外者のときにも使われるものなのかしら、なんて、ドラマを見ながら考えさせられたものです。

さて、「ふてほど」で、もうひとつガッカリしていることは、ドラマの中で、頻繁に「あくまで個人の見解です」というようなコンプラ保守の定番のようなテロップを出していることです。しかし、これも視聴者を考えさせ、混乱させる「ねらい」なんでしょうね。でも、こうすることによって、番組のもつ「主張」がどんどん薄まっていくのですよね。あるいは、このドラマ自体の業界生き残りのための方策なんでしょうか。さしずめ「ふてほどにもほど(程度)がある」とでも言いましょうか。

まあいたずらに今の世相を嘆いても仕方ありません。時代の流れにも逆らうことはとてもストレスのたまることです。一方で世の中の、特に中年以上の世代の人々に、今の窮屈な社会を嘆いている方は少なくないでしょう。何を隠そう、私もその一人です(隠さないでも十分わかりますよね)。一人で世の中の潮流を右から左へと逆流させることは大変難しいですが、少なくとも「長い物には巻かれろ」という風潮だけには少数でも一人でも逆らっていきたいものです。

「コンプラ船船 追手に帆かけて 修羅シュシュシュ~」

コンプラコンプラというのは、これも今の一時的な流行りで、いつかはまた風潮が変わっていくのでしょうか。

今の世の中で期待したいのは、「コンプラがこうだから」とか「時代の流れがこうだから」という、ひとつの物差しだけで人を判断したり、対応を求めたりすることをやめてほしいということです。

「パワハラはあったと認定した」とか「いじめがあったかどうかは協議されていなかった」とか報道で繰り返されているのを聞いて、あまりいい気持ちはしないですもん。

あとは対応のセレモニー化です。毎日のように行われる謝罪会見や、第三者委員会の立ち上げなどは「セレモニーを行う」こと自体が目的になっていませんか。

もう少し個々の事例を個別によく考えて、個別に対応していければいいのにと、自分自身への鼓舞も含めて最近よく考えます。

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