「そして宇宙は」

幼いころに見た星空は、美しく様々な想像をかきたてるものでした。今の神戸では星空はあまり見られないでしょうが、はっきりとは覚えていなくとも、私の育った場所(神戸市の西の端、舞子)では、結構な星空が見えたように思います。隣近所の遊び仲間を家に呼んで、ベランダで星を見たり、母の作ってくれたお団子を食べながらお月見をしたりしていた記憶がありますので、確かだと思います。

そして幼いころより、星空がとても身近に感じられていたのは、ひとえに東経135度子午線上に勇猛果敢に立つ、明石天文科学館のおかげであると思っています。舞子に住んでいた私は、近場の明石天文科学館は、「お休みに連れて行ってほしい場所リスト」の常にナンバーワンの地位を独占していました。天文科学館に行くと、無性にテンションが上がり、宇宙の成り立ちを確認したり、太陽系の模型を動かしたりするのに大忙しでした。あのグイーンという惑星の動く昭和の機械音が今も耳に残っているようです。プラネタリウムで居眠りするなんてことは考えられず、紡がれる星空のストーリーに想像力たくましく聞き入ったものでした。

ただ、このような星空への興味は長く続くものではなく、高校時代に選択した「地学」のあまりの難しさに、この分野を極めていくのは尋常なことではないと感じる羽目になりました。せいぜい星座の名前と星の名前を覚えるくらいのものとタカをくくっていたら、意味不明な記号や数字の並ぶ計算式にほとんど頭はパニック状態でした。

そして、その後「宇宙」については、私にとっては地学的なものから、いつの間にか哲学的なものとして考える対象へと変わってきたように思います。哲学などと大げさな言い方をするほどでもないんですが。

なぜ135億年も前に宇宙が突然誕生したのか。誕生する前は、いったい何があったのか。どうして我々は宇宙誕生後135億年のときを経て、今このような生活を送っているのか。細かく突き詰めて言えば、なぜ人は生まれて学校に行って、社会に出て働いて、結婚して子供が生まれて、年老いて死んでいくのか。どうして余暇に旅行に行くようになり、本を読むようになり、音楽を奏でるようになり、必死で金儲けするようにあり、オレオレ詐欺をするようになり、戦争をするようになったのか。なぜSNSをしなければいけないのか。なぜ満員電車に乗らなければいけないのか。なぜ愛したり憎んだりするのか。このような日常生活で当たり前とされていることは、どうして当たり前なのか。

宇宙のこれほど巨大な空間と時間の中で、今パソコンに向かいながらティッシュで鼻をかんでいる自分って果たして存在価値があるのかと思うとちょっと頭がおかしくなりそうになりますよね。

さて、「地球以外に生物がいるのかどうか」ということが、科学者の間で本気で議論になっているかどうかわかりませんが、よく耳にする話ではあります。地球上での人類史の中で文明が誕生してからせいぜい数千年とすれば、宇宙の歴史から見て、鼻くそにもならないようなそんな時空の中で展開されてきた人類の生活は、たとえ、地球外に生物がいたとしても同じように展開されているとは限りません。また、同じようになる必然性もないでしょう。

人が想像する「地球外生物」にもいろんなタイプがあると思いますが、万一、高度な文明を持ったものが存在していたとしても、私たち地球人の想像する、それらの生活様式というのは、地球人の基準をもとにしたものに過ぎない気がします。

さて、ここからは私の妄想ばなしになるのですが、ある星では、(よくSFに出てくるような)タコに似た火星人のような異世界人たちが、ずらっと何人も並んでひたすらタコ踊りをしている世界があるんじゃないか、というようなことを昔からよく考えていました。つまり、満員電車も戦争もない、ひたすら踊りながら10万年くらい過ごしているというそんな星です。その星では、ずっとタコ踊りを続けていることが生活上の必然なのです。今のこの世界が地球スタンダードなら、それがその星の世界の人のスタンダードでもいいのではないかと。あ、そもそも「人」とは言わないかもですよね。

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