「すいませ~ん」

子どものころ、どんな語彙や表現を使って会話していたかの記憶がはっきりと残っているわけではありません。しかし、大学を卒業し、就職して海外に拠点を移し、長い海外生活を経て2005年に帰国した時に強烈に感じたのは、交わす会話の中にある微妙な違和感でした。

もちろん、その間全く帰国しなかったわけもなく、年に1~2回程度は会議で帰国していましたが、その各1週間程度の短い滞在ではあまり実感しなかったものが、本帰国になって、妙に違和感として気づくようになってきたというところはあります。

その中には、コンビニで買い物をしたとき「1000円からでよかったですか」という妙な確認の仕方がありましたし、「違くて」という言い方が、かなり定着してきたということなどがありました。特に、「違くて」には驚かされました。

「違くて」、なんじゃそりゃ!ということは、「違う」は動詞じゃなくて、いつからか形容詞になったのか。あるいは動詞でも形容詞でもどちらでもいいことになったのか。頭は混乱します。でもスキマスイッチやBack Numberとかの歌でも普通に使われているということは、もう立派に市民権を得ているのかと思ってしまいます。

しかし、パソコンのWORDで「ちがくて」と打って変換すると、「地学手」と出てきます。何度やっても「違くて」とは出てきません。ということは、まだスラングの域を超えていないんでしょうか。

きっと、20~30代くらいの若い人が万一これを読んだら(それくらいの世代の人が読んでくれたらいいなあ)「このおじさんは何を言ってるんだろう」と不思議に思うでしょうね。

あと違和感を感じたことと言えば、会話の文章のイントネーションが妙にみんな同じ感じになっていて、「・・・したら~・・・・でぇ~」と間延びしていること(小津安二郎の昔のフィルムの中の会話と比較するとその違いは一目瞭然です)、お店の呼び込みの声の調子やスタイルが画一化されてきていること、なんていくつかありました。でも決してそれらを皮肉ったり批判したりしているわけではありません。それじゃ単なる老人(準老人)のボヤキになってしまいます。あくまで言葉は時代の流れと共に変化していくということで、そこにタイムラグがあった人は戸惑うというだけのことを言っています。

それよりなにより私が一番違和感を感じたことは、「すいませ~ん」の多用です。「すみません」ではなく、単に「すいません」でもなく、「すいませ~ん」です。

会話文の冒頭にも使いますし、締めにも使います。締めにはより多く使うでしょう。これを連呼することもあります。話者がお互いに連呼し合うこともあります。そして、自分自身が無意識のうちに同じように使っています。「・・・では、〇月〇日の〇時にお伺いするということでお願いします。すいませ~ん。」という感じです。すると、だいたい相手も「承知しました。すいませ~ん。」と返してくるでしょう。

どうして「すいませ~ん」なんでしょう。どうして謝るんでしょう。いや、そもそもこれは謝っているんじゃないのかもしれません。多くの人が無意識のうちに使っているでしょう。その裏には、何か「無意識の良識」があるのかもしれません。

日本は「謝罪の文化」と言われ、人は「謝罪」を求め、人は「謝罪」をすることで物事の幕引きを図ろうとします。これはひとつの儀式化されていて、儀式が無事に終わることで、人はまた次のステップに進もうとします。

これは決して欧米などの民族にはない文化で、日本人特有の良識なのかもしれません。日本人は、「空気を読み」「決して目立たず主張しすぎず」「自粛を重んじる」このようなことが、美徳とされてきていますよね。その表れが、常に「主張しすぎたらごめんなさい」という意味の「すいませ~ん」で、知らず知らずに自粛し、自分を防衛しているのではないでしょうか。

私は、いつも「型破り」を目指していて、それを自分のアピールポイントとしているつもりです。でも、私は日本人だから、日本人のように振舞います。このブログでも少しは自粛の部分が入っていますし、自己防衛もしています(つもりです)。日本人にとっての日本人魂は、パソコンにとってのバッテリーのようなものじゃないかと思います。

一方で、世界はSDGsの真っただ中。世界が垣根を乗り越えて理解し合い、協力していかないとこれからの世界は持続しません。文化は喫緊の課題じゃないなんて言わずに、日本のいいところを伝えつつ、世界のいいところももっと取り入れて、理解して、調和していかねば生き残りは難しいですよね。

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