Myコラム(14) 「パワハラはあったと思います」

最近、特に違和感を感じているのが、この「パワハラはあったと思います」「いや、パワハラはなかったと思います」というような表現と、その報道です。同じようなものに、「いじめはあったと思います」「いじめがあったとは認識していません」のような表現、やり取りもありますよね。私は「パワハラ」という行為の存在自体を否定しているわけではなく、また「パワハラ」を容認する立場には決してありません。いろいろな世界で、上に立つ者がその権力や立場を利用して、社員や職員、部下などに理にかなわない行為、物言い、要求、叱責などを行うようなものは「パワハラ行為」と言って当然だと思います。

 違和感を感じるのは、あたかも「パワハラ」に全国標準(あるいは世界標準?)があるように、それはパワハラだ、それはパワハラではないとマスコミが言うから、世間でもその報道に流されて、同じように一方を非難するツイートをしたり、噂し合ったりする無責任な状況です。もし全国標準があるとすれば、それはやはり法律になるのでしょうか。日本では、2022年には大企業に加えて、中小企業でも「パワハラ防止法」が施行されています。その「パワハラとなる基準」も細かく規定されているようです。パワハラを法制化して規制しようという取り組み自体は悪くないと思います。

一方で、それをもって「順法だ」「法律違反だ」という議論は、このような非常に個別性の高い、人間同士の関係性がとても深く絡んでくる案件には不向きなような気がするのは否めません。「今回の行為は、法律の基準に見合わせて60%程度パワハラと言えます。基準を10%超えているので、パワハラと断定します」とかでも言い始めるのでしょうか。まあ、なにも根拠がなく、感覚的に、あるいはその人物の好き嫌いでパワハラ議論をしていることに比べると、ましといえばましなんでしょうが。そもそも、「パワハラ」「パワハラではない」ときれいに2分されるものではないと思います。勝った負けたの勝負ごとじゃないんですから。

 パワハラやセクハラ、モラハラなども含めて、「○○ハラスメント」の類には、上述のような個別の事情が絡んできますので、一概にきれいに2分できるものではないのでしょう。もし、パワハラのラインが本当にきれいに引かれているとして、仮に「50%」という数字がそのラインとしましょう。個別の事情とは、普段の関係性や、その背景などです。それがとても自然な関係性であり、いい関係性を築けていたのであれば、ある言動が70%のパワハラ疑惑であっても、相手は「パワハラだ」と訴えることはなく、何かの感情の行き違いと捉えるかもしれません。逆に、普段からの関係性が悪い場合は、30%の疑惑でも「パワハラを受けた」と訴えられるでしょう。このように、絶対的にパワハラというには、いろんな個別の事情を考えなければいけないんじゃないかと思います。

最近、とみに増えている印象を受ける、マスコミのパワハラ報道の裏には、あきらかにむかしの「ゴシップ記事」(今もありますが)の感覚があるような気がしてなりません。そしてパワハラした(と思われる)人に対して、パワハラを受けた(と思われる)人がそれぞれ否定したり、お互いを攻撃しはじめると余計にそれらを煽り、そしてその記事に民衆はどんどん煽られていきます。

どんなパワハラ疑惑が上がったとしても、私たちも「そうだ、そうだ」ではなく、本当に興味があるのならその背景をとことん調べて、そしてある程度の時間をおいてから冷静に見極めるのが大事ではないかと思います。

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