#089 「令和の偏屈王うそぶく」

以前、ブログ#029で「僕がChatGPTを使わない理由」で書いたことと少しかぶっています。幸いにも、このブログを書いている時点まで私は宣言通り、いっさいChatGPTを使っていません。家族にはときどき「それ、ChatGPTにでも聞いてみたら」という、かなりずるい策略を取りながら「また聞き」することはありますが。

 そもそも人がChatGPTを使うのは、100点満点の回答を求めているというよりも、「早く正しい回答が知りたい」という欲求を満足させてくれるからだと思います。この「早く(速く)」とか「短く」というキーワードは近年とみに価値を増してきたようで、映画なんかもファスト映画と言って10分くらいにまとめたものを見るらしいです。それ以外にも、多くの日本語の言葉が(愛称として)短く略されること、役所に行かなくてもコンビニで証明書類が発行できること、パソコンの設定や、中に新しいデバイスを入れたり、ソフトを取り込んだりする手続きなんかも明らかに簡略化されていることなど挙げればきりがありません。

 今の世の中からは「一つひとつ考えながら取り組んでいくステップ」が除外されていく、あるいはそのステップが「軽んじられる」傾向にあるような気がします。その結果、利用者たちにも、「そんな面倒くさいことをどうしてやるのか」という考え方は否が応でも広がるでしょう。

 ChatGPTは、「令和時代の百科事典」という考え方もあるでしょう。昔は、何かわからないことがあれば百科事典をひいていましたよね。「これは百科事典に書いてあったので事実だ」と信じていたという点では、今、ChatGPTを使っているのと、目的としてはそう変わらないかもしれません。一方、百科事典はシリーズで何冊もあってむやみに本棚の中の場所を取ったのに対して、ChatGPTはスマホ一つあればことが済みます。また、百科事典はかなりの高級品だったので、持っていた家庭のほうが少数だったでしょうが、スマホはまあ持っていない人の方が少ないですよね。昔は百科事典に頼っていたことを今はChatGPTに頼って何が悪いという考え方をするのはわからないでもありません。

 いやはや、私はいよいよChatGPTを肯定するほうに棚引いてきたんじゃないかと疑う向きもありそうですが、いやいや、そう簡単に投降しませんよ。私がこだわるのは、やはり「人間 VS AI」という構図です。こうなると一気に論旨が世俗的になってしまいますが、いくら論理的な思考を展開したところで、おおもとの部分はそれなのです。なんで人間がAIにおもねるのかということです。まあ大概の人はこういう考え方は「現代の偏屈王のやっかみ」というふうにしかとらえないでしょう。

 よく「AIは人間を超えるようになるのか」という議論がありますが、絶対にそうはならないと思います。何故なら、AIは何兆(知りませんが)という膨大な数のデータを瞬時にニーズに合わせて組み合わせて処理しているに過ぎないからです。そのデータの数や処理能力はまだまだ進化していくと思いますが、しょせん、そのデータが頼りであり、人間が行う「データとデータの間の微妙な思いや感情的なもの」はAIには再現できるはずはないからです。つまりAIには、(特に日本人はお得意の)「行間を読む」ということができないからです。

 まあ科学論文ではなくブログなので、私はそれを「できない」と言い切ります。割り切って「利便性」を重視して使えばいいものを、令和の偏屈王はうそぶいていきます。白旗を揚げる日までは。

(写真:盲ろう者さんの工芸作品 人間の能力ははかり知れない・・・)

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