#027 「わたしがおじいちゃんになっても」

便宜上、「コラム」と「ブログ」は分けるようにしているのですが、今日は「コラム」のような「ブログ」になりました。まあ個人のブログやコラムですし、ややこしい話はやめにしましょう。で、森高千里さん、すみません。勝手に歌のタイトルをパロッてみました(パロッて・・・?)

 皆さんは「お年寄り」というと真っ先にどんなイメージを浮かべますか?「頑固でとっつきにくい」「穏やかでニコニコ顔」「人の言うことなんか気にせず我が道を行く」「老成して後光がさしている感じ」私がちょっと考えてみるだけでこれだけ出てくるのですから、要するに「お年寄りだからこう」という固定のものはなく、人それぞれ、各人各様ということになるのでしょう。当然ですよね。どの世代もそうなのですから、お年寄りになると急に一斉に同じになるなんてことはありえません。

ただ、人は老化すると必ず身体機能も認知機能も低下します。かなり高齢までそれらを保つ鉄人のような方はいますが、通常は低下します。どんどん上昇するということはあり得ません。ただし、低下の始まりやその曲線のカーブ具合は千差万別です。いつごろからか「めっきり疲れやすくなった」とか「テレビの音が聞こえにくくなった」とか「物忘れが増えた」とかいうのは多くの人が、どこかで経験しているのではないでしょうか。また、身体機能は身体的特徴(外観)としてもよく表れます。毛髪(薄毛、白髪)、しわ、体型、腰の曲がり具合なんかがそうですよね。

人は普通であれば、それらの変化に際してネガティブにとらえるものです。「だんだん頭が剥げてきてとても嬉しい」とか「物忘れが増えてラッキー!」とか言う人はあまりいないと思います。また、年をとると、自分の身体機能や認知機能から生じるネガティブな感情、失望感や喪失感に加えて、自分の回りの親しい人たち、愛する人たちが亡くなり始めるという喪失感を多く感じるようになります。つまり、自分由来の喪失感と、他人由来の喪失感のダブル喪失感に見舞われるというわけです。

「なんだ、やっぱり年をとるっていいこと何にもないじゃん!」ということになりそうですが、ここからが挽回になります。自分自身がその域に達しているわけではなくとも、少なくともそのように努めようとしています。それは即ち、「年をとるのにあらがわないこと、老化とともに生きていくこと」かなと思います。80歳の美魔女を批判するわけではありませんし、その人の生きる活力になれば、それはそれで素晴らしいと思いますが、むやみに回りがそれを称賛したり、羨ましがったりするのもなあと思ってしまいます(健康食品産業や美容産業を儲けさせるだけですし)。

私の場合は「老化にあらがわないこと」「しかし生涯、勉強と生きがいは追究すること」この二つでしょうね。人は老化しても、経験や知識にもとづいて理解する能力は比較的長く保たれるといいます。「わたしがおじいちゃんになっても」勉強し続けたいし、生きがいを持っていたいと思っています。そしてたとえ認知症になっても、それとあらがうことなく、その時にできることをできるだけやれればいいなあと思っています。あとは回りがそれを理解し、サポートすることですよね。

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