#106 「N先生」

18日の土曜日に私たち六甲学院高校の36期生による「N先生の喜寿を祝う会」が開催され、同期生180名のうち約50名が会場の神戸メリケンパークオリエンタルホテルに集結しました。

 いや、「36期生による祝う会」と言っても、この会の費用は全額、N先生自身がご負担してくれたもので(ご本人の強い希望により)、加えて引き出物として参加者全員に個人の名前の入った天然漆塗りのお箸まで贈っていただくことになりました。「感謝」という言葉まで添えられて。

 我々の負担と言えば、先生への記念品として、生徒が個別に作った一人1枚の「贈る言葉と自己アピール」のページをまとめた記念アルバムの製作費用やお土産品の費用分担だけであり、それもほぼすべての手配を幹事さんである有志数人の生徒に丸投げしたものでした。

 思えば、その教師にしてその生徒(幹事役の有志)あり、とはこのことで、彼ら有志がいるからこそ、私たちの先生との関係は途切れずに、そして何より「一番強い結びつきのある学年」と先生自身がおっしゃってくれたように、卒業後46年たった今も続いていると言えます。そして、そのような関係を生んだのも、他ならないそのN先生の魅力があったからこそでしょう。

 私は高校時代は目立たず、多感で内にこもるほうだったので、友人も少なかったですし、正直言ってN先生とも、特段、先生と生徒の関係以上のものは築けなかったように思います。一方で一部の外向きで積極的な生徒たちはどんどん先生の魅力を感じ、そこに入り込み、単なる先生と生徒の関係以上のものを作っていったんじゃないでしょうか。それが今の幹事さんグループになって、卒業以降も関係を大事にしていっているのは言うまでもありません。

 一方、そんな内気な生徒の私も私なりに、N先生の人柄と魅力は感じていました。それが知らず知らずのうちに今の私の「長いものに巻かれず迷わず我が道を行く」人生観に多大に影響していったのかもしれません。

 とにかく、N先生は型破りな人でした。そして、自分のやり方を貫いて行っていかれた方だと思います。「そういう前例がないから」という言葉は先生にはまったく無用の長物でした。自分がこれだと思ったものを迷わず副教材として取り入れる。「Baba Yaga’s Daughter」や「Charlie & The Chocolate Factory」なんかも1970年代当時は教材として使う前例がなく、日本に在庫もなかったので、英国に行ってわざわざ出版社に直接かけあってやっと仕入れたという熱の入れようでした。Charlieは本当に毎回、訳していくのが楽しくてしようがなかったことを思い出します。

 当時の洋楽を聞かせて、その歌詞のひもときを授業に取り入れたのもN先生でした。The Beatlesの曲を紹介してくれその歌詞をひもといたときは、授業が終わるや否や、校長に呼び出され説教されたそうです。当時はThe Beatlesを聞くなんぞ、ぶっ飛んだ不良のやること思われていた節があったからです。それがどうでしょう。今や英語のテキストに載って教材になるだけではなく、道徳の教科書でも紹介されるくらいになっているではないですか。どれだけ先見の明があったのでしょうか。

 それ以外でも、全校生徒を講堂に集めて、定例の映画上映会を開くということもN先生が始めたものです。洋画ばかりではなく邦画でさえ。「ベンハー」「北国の帝王」「ブラザーサン・シスタームーン」「若者たち」「新幹線大爆破」など面白いと思ったものは迷いなく生徒に紹介したい、見てほしいという思い、それを形にするという行動力は素晴らしかったです。

 ほとんど内にこもっていて、生徒と先生の関係以上のものを作りたくても作れなかった私も、知らず知らずに大きな影響を受けて、おかげさまで英語の成績はつねに学年上位にいましたし、また同期では唯一、先生の後を追って、同じ大阪外国語大学のフランス語学科に入学しました。その後、当初のモチベーションはそれほど長く続かず、もっと大学で遊びすぎず勉強すればよかったというのは私のいくつかある「人生での汚点とその悔悟」アーカイブに残ったうちのひとつです。

 今回、卒業以来3度目の同窓会的なものに参加して何よりも感動したのは、そんな「影の薄い」生徒だった私の手を力強く、長い間握りしめながら、いろいろと私個人に語り掛け、話を引き出してくれたことです。「恩返しと言う言葉はあまり好きじゃない」と生意気に公言している身の私ですが、この時は心から「恩返し」がしたいと思いました。今は病気も抱え、子供さんたちも自立して家を出てご夫婦で生きておられるN先生。必ず近々お電話して、いっぱいお話をしに行きたいと思っています。

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