#186 「私がおばあちゃんになっても」

 昨日の認知症介護実践リーダー研修で講師の間でこんなことが話題になった。すなわち、今の認知症介護におけるBPSD(認知症の行動心理症状)のパターンはだいたい同じように決まっていることが多いけど、これが今の子供や若者たちがおばあちゃん、おじいちゃんになる頃はだいぶ変わっているのではないかという話だ。

 そんな先の話をすると鬼が笑うと思われるかもしれないが、そういってもたかだか60~70年先の話だ。これって何かの症状の傾向が大きく変わるかもしれないという文脈の中では、決して長いスパンではないと思う。

 というより、私たち今の60代が要介護状態になったときに(要介護になるとしたらの仮定で)今行われているサービスやアクティビティは随分と違ってくるのではという話は今までにも結構してきた。例えばデイサービスや施設内でかけてくれる音楽は、今のように唱歌や演歌というのは圧倒的に少数派で、ビートルズやローリングストーンズや沢田研二や松田聖子という時代は必ず来る。それもそう遠くない先に。もういろいろとわからないことが増えて、ボオッとリビングに座っているようになったときでも、演歌とかがかかったとすれば顔をしかめるかもしれないし、怒り出すかもしれない(演歌歌手、演歌好きの皆さん、ごめんなさい)

 そして40年、50年、60年と時が移ろっていくとすなわち「馴染みの生活」自体がもうとんでもなく大きく変化してきて(それはすなわちここ50年来の技術の進歩がとてつもないレベルということ)介護施設で暮らす生活も大きく変わってくるはずだということだ。

 その近未来の馴染みの生活に欠かせないのはスマートフォン、インターネットやIOTになるということだろう。「70年後のおばあちゃん」は、片手にスマホを持っていないと「不穏」になるかもしれない。あるいは、何も持っていなくても片手の親指が常に勝手に動いているかもしれない。その頃の「不適切ケア」として「なんか板でも持たせとけ」というものが出てくるかもしれない。そして家族に連絡する段になるとおばあちゃんは「LINEする」と言い張るかもしれない。おじいちゃんは「チャット君に聞いたらええ」というかもしれない。

 そして興味深いのが、その時代の帰宅願望はどうなるのだろうということだ。いや、帰宅願望ってそもそも残るのか。今の要介護者の働き盛りの時代は、男性は働きつかれて家に帰る、女性はご飯を用意して旦那を待つというもので、今なら確実に時代錯誤だセクハラだと言われるのは間違いないが、少なくとも疑いなくそういう時代を経てきているのだ。それが、そもそも今の若い世代の「帰る場所」「帰りたい場所」はどこにあるのかということから始まるのかもしれない。ずっと共働きの夫婦だった人はどこが自分の回帰場所になるんだろう。どこが安全基地になるんだろう。そして今の子供は、若者は。そんな興味深い話題で盛り上がった。

 とここまで書いて思い出した。以前同じ「私がおばあちゃんになっても」というタイトルで別のブログを書いた気がする。めんどくさいので調べるのはやめよう。

 

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