#151 「暴露ばなし ~完結編」

 さて、暴露ばなしの後編です。その後、私の髪の毛は、順調に数を減らしていきました。シンガポールの常夏の国に赴任をして、一年中蒸し暑い天候が私の髪にどのように影響したかわかりませんが、まあ日本にいるときとさほど変わらず、洗髪の時には抜け毛が多かったです。

 高校の時からのスペシャルブラシは場所を変えてもいつも大事なお友達でした。飛行機に乗る回数がむやみに増えて、月に1週間は事務所を離れて近隣の東南アジア諸国にピアノ売りの行商をしていましたが、このブラシはいつも旅のお供でした。

 特にマレーシア全土をひたすら歩いて、汗まみれで販売ルートの開拓をしていたころは、妻曰く「インド人よりも真っ黒に」日焼けしていました。実際によく遊んでいたインド人家族と並んで撮った写真がありますので比較してみてください(その写真がすぐに見つかりません、悪しからず)。でも頭のテンコチョ(静岡弁)はどうだったのでしょう。そもそも鏡を見るときは正面の顔しか見ていないので、頭頂部はどうなっているのかよくわからないのです。

 ところがあるとき、マレー人の友人の結婚式に招かれて、床に円座になって食事をしていたとき(そういう時は郷に入れば郷に従え、手で食べるのですよ)上から撮られた記念写真は、頭のてっぺんに確実にまる―く穴が開いていました。まあショックでしたよね。まるで薩摩の国に渡来したフランシスコ・ザビエルでした。そういうPTSDはそれからの人生を支配します。仕事でもプライベートでも、誰にあっても「自分はザビエルだ」という気持ちがどこかに見え隠れし、ちょっとシュンとしたりするのです。「たかが髪の毛、されど髪の毛」です。

 会社を辞めたのは髪が薄くなったのと関係ありませんが、依願退職して40歳で日本語学校を現地で立ち上げました。その時はもうだいぶ薄かったでしょう。一度、いろんな邪念を断ち切る意味もあり、丸坊主にしました。すると守衛のインド人のおじさんに「タリバーン!」と呼ばれました。

 45歳で帰国し、介護の仕事についたころには薄毛に加えて、白いものがちらほらと混じってきていたような気がします。そのころから、周りのスタッフたちからは容赦のない「はげネタ」の攻撃を受け始めました。しかし、それは全く嫌な気はしませんでした。なんでしょう、そういうところが介護職の(と一括りにする根拠はありませんが)基本的に陽気で人懐こくてあっけらかんとしたいいところだと思います。愛情があったと思います。多分。その中で(もちろん最大級のいじりで)「私のチャームポイント」と称してくれる後輩がいて、そこから先は、髪の毛は私の最大の個性であり、チャームポイントだと思うようになりました。

 私のはげは祖父からもらった宝物です。なぜかうちの父方の男ばかりの四兄弟は誰もはげておらず、一方で祖父はつるっぱ・・・おっと失礼、いわゆる禿頭あたまでした。うちの弟もかなりのはげ頭。つまりは典型的な隔世遺伝です。遺伝学者の方、ここに立派なサンプルがありますよ。

 しかし私が生まれる前にすでに他界していた祖父は大きな額縁の中で威厳ある禿頭を光らせてくれてくれるだけです。おじいちゃん、こんな頭に産んでくれて(産んでいないか)ありがとう。私はこの頭を誇りとし、世の光としていくから。

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