#147 「こんぷらいあんす」

 すでにこのブログでは主役級のうちの92歳の父ですが、今まで普通に会話していたかと思うと、突然、こちらの話をスルーすることがあります。まるでそこだけ聞こえていないようにふるまうのです。父親に指摘すると、どうも確信犯のようで、「かって〇んぼや」と開き直ります。「〇んぼ」はある障害に対する昔の差別言葉です。今日のトピックは、この「かって〇んぼ」を深めることではないんですが、もっと広く世の中のコンプライアンスについてです。

 例えば、ひと昔前に世の中で行われていた会話をそのまま放送で流したりすると、結構大変なことになりますよね。コンプライアンス的にどうかという部分やNGワードにあふれているからです。例えば、昔の紅白歌合戦の映像を流していることがありますが、私たち世代にはそうでもないですが、おそらく現代っ子さんたちには違和感に満ちているんじゃないでしょうか。え?これっていいのというような感じで。

 同じように、高齢者介護の現場にいたとき、普通にNGワードが飛び交っていることがありました。高齢利用者さんによるNGワードです。すなわち「差別用語」であったり、〇〇ハラの類に入りそうな言葉であったりです。戦時敵国に対するひどい差別とかは逆にその時代を生きてきたが故の悲哀を感じたりします。でも、Z世代の介護職員は意味が分かっているのでしょうか。どう感じるのでしょうか。

 もともと、コンプライアンスは企業に課せられた「法令順守」のことですが、法令順守だけではなく、倫理観、公序良俗などの社会的な規範に従うことなどと言ったもっと一般的に広い意味で使われているようです。そして、このコンプライアンスが企業だけではなく、市民の間でも広く当てはめられてきているような気がします。

 もちろん、人の会話(コミュニケーション)というものは、片道切符ではなく、両方向のものであり、相手が気分を悪くするものでいいはずはありません。話す人、聞く人がお互いのことを尊敬し合って、尊厳を守り合って初めていい会話がなりたつと思います。その会話の中に世間の事象や第三者が出てくるものであっても、お互いがほどほどに納得し合える話題であればいいですけど、一人の人を過度に糾弾したり、中傷したりする内容だったら聞いているほうもあまり気持ちが良くないこともあります。

 ですから、というわけではないですが、人が市民コンプライアンスを守っていくのは、決して悪いことではないと思います。一方で、私が違和感を強く感じるのは、コンプライアンスが「独り歩き」をしているような世の中の風潮です。「コンプライアンスは永久に不滅です」とでも言うかの如く、絶対的君主のように居座っていることも気になります。

 政治家や大企業の経営者などその責任が大きい人々はまだしも、普通の生活をしている市民に、あまりに形だけのコンプライアンスが問われるのは少々行きすぎ、窮屈な気がしないでしょうか。人々の行動や発言がまずコンプライアンスという物差しで計られるのはちょっと勘弁してほしいです。

 たとえば学校では「○○君と呼ぶことがなくなり、全員○○さんになった」とか、連絡網がなくなったとか、テレビ放送ではいちいち「あくまで個人の見解です」とか「これから子供に有害な映像が流れますのでご注意ください」とかのテロップが流れたり、ネットの投稿には個人情報に異常に気を使ったりとか。○○ハラの種類はどんどん増えていき、会社で上の立場に立つ人はどんどん肩身が狭くなっていき、新人が大きな顔をする時代。「お客様は神様」だったのが、カスハラがないか目を光らせているとか。学校の教師は指導の仕方に異常に気を使い、「いじめがあったと認定しました」と第三者委員会がやたらと忙しくなったとか。

 おそらく今の時代では当たり前の習慣で、「それが何か」と言われそうです。昔はよかったと「不適切にもほどがある」時代ばかり懐かしむわけではありませんが、このようなコンプラ行き過ぎ社会は、裏を返せば、いたずらに「コンプラ違反」を探し回る自粛警察のような人々を喜ばすだけ、というのもあり、そこではひとつひとつの事象への事細かな指摘や批判や誹謗中傷や謝罪の要求などを呼ぶことになり、結果としてあまり気持ちの良くない社会が生まれるだけのような気がします。「病気の治療」が主目的なのに、その「副作用」ばかりがはびこることになっているようで仕方ありません。

 この世の中、つくづく「大らかさ」や「ほどほど」という言葉が似合わなくなってきたと思います。息苦しく感じます。あ、「あくまで個人の見解です」

(写真:コンプラふねふね、追い手に帆掛けて 修羅しゅしゅしゅ)(写真はフリー素材より)

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