#146 「様子観察という攻めの姿勢」

 押しの虎戦士、サトテルが昨日は北海道エスコンフィールド球場で14号と15号ホームランを打ちました。どうも1本出ると、その勢いで同じ日にもう1本ということが多いような気がします。そしてまた長いブランクが始まる。でも安心してください。それは去年までの話で、今年はどうも違うようです。明らかに変化が見られます。偶発的ではなく、確信と必然で打っているような気がします。

 それでこの前振りは何なのかと言いますと、「今日はそのお祝いで、私もブログ#145と#146を同時に打ち上げます」ということにつなげたかったのです。これは偶発的ではなく、必然です。

 さて、本題に入りますが、「様子観察」という言葉によく接していたのは、介護職現場の仕事をしていたころです。利用者さんの心身の変化に対して、スタッフがあわてて医師に報告するのですが、その結果の指示が「様子観察で」ということが多かったということです。正直、現場にはがっかりしたムードが漂いました。すなわち、現場は「ではこのように対応しなさい」「この薬を処方しておきます」というような具体的な指示を期待していたからです。「また様子観察か」という苦笑さえ表れたのも事実です。ちょうど現場の長だった私がスタッフの報告に対して「臨機応変に対応してください」と言ったときのあのスタッフ間に漂う空気感と一緒でした。

 しかし、当時ではまだなかなかそこまで考えがいたらなかったのですが、「様子観察」というのは、とても難しく大切なことだと思うようになったのはそれから大分してからのことでした。「様子観察」にはちゃんとした根拠がある。「様子観察」というのは決して受け身ではない、もっと攻めなきゃいけないもので、決してボーッと見ていて出来ることではないと思いました。その「様子観察」の役割を受け持ったからには、責任をもってその間のどんな細かい変化も見逃してはいけないということです。

 介護現場の世界での「様子観察」は大事だといううんちくは以上ですが、実は普段の私たちの人とのやりとり、人間関係についても「様子観察」は決して受け身ではない、時に積極的な姿勢につながることがありますね。そして、人のことを観察するだけではなく「自分に対しての様子観察」ということも大事になってきます。

 よくあるケースは「意に反したメールを受けて、腹が立って、それに反論したりするとき」は、怒りに任せてすぐに返信をせずに、一晩寝かせるようにしています。それは「自らの一晩の様子観察」です。一晩寝かせても怒りが続くときは使う言葉に気を付けながら、その意思を伝えますが、だいたいは瞬間的に沸いたお湯は冷めていることが多く、冷静になって返信ができるというわけです。そうすると「戦争が勃発する」ことは少なく、冷静なやりとりが続くことになります。

 しかしこれが一週間も寝かせると「香が抜けてしまう」ことにもなります。メールで大事なことをやり取りすることはタイミングも結構大事ですね。

 っていつもの調子で何が言いたいのがわからなくなってきましたので、そろそろ失礼することにしますが、要は「様子観察」にはちゃんとした根拠とそれをするための目的がある「攻めの姿勢」であることが言いたかったのです。

(写真:闘いには負けても今日はスポーツ紙を買う、これは偶発的ではなく必然です。)

 

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