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#128 「桜さくら」
「リンゴりんごリンゴ」の次は「桜さくら」と来ました。この季節になると、人は外にくりだし、桜の木の周りに集まり、お花見をしたり、感慨深い顔でただただ眺めたり、プロのカメラマンよろしく構図を決めながらカシャカシャ、シャッターを切ったりしています。スマホのカメラでも、なんとなくカメラマンになったような錯覚は十分に味わえますよね。
お花見にもドンチャン騒ぎをする派、並んで静かに黙々とお弁当を食べる夫婦、撮影スポットを探しながら歩き回る若いカップルなど、年中行事のこの1週間は、花の周りにいろいろな姿が個別に繰り広げられています。それを見ているのも楽しい季節です。

かくいう私も、毎年花が満開になると、だいたいは近隣の毎年同じ桜の木たちに向かって、カシャカシャやっています。うちの近所は桜には恵まれています。新湊川沿いには多くの桜の木が植えられていますが、なんせビニールシートを広げてお花見するようなスペースはないので、だいたいは散歩をしながらのお花見となります。姫路城や須磨浦公園や王子公園や大阪の造幣局と言った超有名なスポットでもないですし、人も少ないので、完全な穴場となっています。そういえば、西宮に勤めていたころは、大社町、廣田町あたりのみたらし川沿いも穴場でした。「穴場ツアー」とかを企画したら人気を博すと思いますが、穴場に人が群がったら、もはや「穴場」ではなくなり、まるで「人の来ない山奥の秘湯ツアー」に参加した人が、観光客が多すぎて辟易するようなものと同じようになりそうです。だから、「穴場ツアー」はやめておきましょう。
お花見というと思い出すことが二つあります。一つは、認知症グループホームで毎年お花見を企画して、それこそすぐ近くのみたらし川沿いの小さな公園で何名かの方をピストン輸送で連れて行ったこと。利用者さんたちが一様にハッピーな表情をされていたのは言うまでもありません。一人の利用者さんは、毎年「桜を見るのもこれが最後じゃなあ」と言われていましたが、その同じ言葉を7年くらい続けて聞きました。それほど、桜のシーズンは「人の一年間の区切り」や「命」を象徴する基準値のようなものになっている気がします。

もう一つは、母の人生の最後の年(もちろん、それは後になってから分かったのですが)に何とか家族全員で協力して母を車いすに乗せて、近所の公園にお花見に連れて行ったことです。それは今も写真が残っています。たくさん重ね着をして「お雛様」のようになって何とも微妙な表情を浮かべている母。それが嬉しかったのかしんどかったのか、もう口に出しては言えなかったけど、きっといい思い出としてあの世へのお土産として持って行ってくれているに違いありません。
年を重ねるにつれて一年の過ぎ去るのが加速度を増して感じ始めた昨今。私個人の桜の撮影会も、それほど「首を長くして待つ」というほどのものでもないですし、その季節があまりに早く訪れるので新鮮味も薄れてきた気もしますが、それでも桜の木を見ると、どうしてもシャッターを切りたくなる。なんとなく思うのが、「私が桜の木を撮っている」のではなく、「桜の木が私に写真を撮らせている」感じがしてなりません。
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