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#110 「全部食べるか少し残すか」
あなたは出された食事は全部食べますか、それとも少し残しますか。物理的に、もうお腹に入らない、これ以上食べるとマーライオンになってしまうときを除いては、「全部食べる、少し残す」の両方にそれぞれの思い、マナーや、はたまた価値観や人生観までが反映されているように思います。どちらが正しいと言いきれる問題ではありません。
私は子どものころから、両親にあまりマナーがどうのこうのと言われた記憶がありません。では、両親はマナーがなっていなかったかと言えば、社会的にも標準以上にきちんとしていたように思います。あまり子どもを厳しくしつけるようなタイプではなかったということでしょう。
それだからか、私は20代半ばまでお箸の持ち方がメチャクチャ変でした。両親から矯正されるということは一切ありませんでした。両方の箸がクロスして、そのクロスしたままものを挟むという高度なテクニックで、それなりにちゃんと食べ物をつかんで食べてはいましたが、結婚してから、それを妻にいち早く指摘されたのです。正式な食事の場では格好悪いと。
それから25の手習いではありませんが、お箸の持ち方矯正大作戦が始まりました。そんなに簡単に直るものかと自分では懐疑的でした。25年の黒歴史だぞ。四半世紀だぞと。しかし、これがまあまあ簡単に矯正できたんですね、不思議と。こんな不器用な私にも。世の中のみなさんも、どんな長く凝り固まった歴史でも矯正は可能です。最初からあきらめずにチャレンジしましょう。
また悪い癖で主題が忘れ去られていました。「全部食べるか少し残すか」でしたね。私のように家ではあまりうるさくしつけがなされなかった子供でも、時代にかかわらず、日本では「残さずきれいに食べましょう」が基本マナーのように思います。それは、戦中戦後の本当に食べるものがなかったころを経てきて、「食べるものがあることに感謝する」という意味も込めて生まれた歴史的文化的価値観なのかなと想像します。
一方で不思議なことに、特にお年寄り中心に「ちょっとだけ残す」ということがあることに気がつきました。認知症のグループホームのときは、ある男性利用者さんがいつもご飯のお代わりにやってくるんですが、「残り全部どうぞ」と声をかけるのに、本当に(この量、誰が食べるの)と思うくらい、ちょっぴりお釜に残すんですね。また、うちの父がそのいい例です。大皿料理とか、ポットに入ったコーヒーとか、少なくなったら最後までさらってくれればかえって助かるのに、ほんの少量残すのです。
あそうか、今気づいたのは、「少し残す」のは大皿料理や大鍋に入ったものなどみんなで分け合って食べるときの料理だ。自分のお皿に取り分けた「分け前」は残さず全部食べているはずだ。そう思うと、やはり日本人の特性として、また歴史的文化的価値観として、人に対する気遣いと、自分の責任(小皿に分けられたもの)はちゃんと全うするという美徳が混ざり合っているような気がしました。効率的なことを思えば、最後までさらってくれればありがたいんですけどね。

一方で、長い駐在員時代に接した中国人文化では、大皿料理のみならず、自分の皿に分けられたものでも少しだけ残すのが礼儀だと聞いたことがあります。これは、一般の家庭で食べている時ではなく、特に少し目上の方にふるまいを受けた時のマナーのようです。「そのこころ」は、お皿の上の料理を全部平らげてしまうと、「今日の料理はふるまいが足りなかった、少なかった」ということを意味するので、「もう十分以上にいただきました、お腹いっぱいでこれ以上食べられません」という感謝を示すためにも、少し残すのだそうです。まあ言えば儀式ですよね。
世界でも価値観はいろいろだと思います。日本も西欧化して「個食」が普通になってきて、食事のスタイルも多様化してきました。価値観もそれぞれだし、何がいい、何が悪いとはなかなか言えません。一方で、SDGsが高らかにうたわれて、飽食の時代が批判されて、今、フードロスが大きな問題になっています。過去には結構食材を余らせたり腐らせたりしてもったいないことをしたことがありますが、今はかなりフードロスをなくすように取り組めてきています。そう遠くない先に、本当に食べるものがなくなる、そういう時代が来ます。自分や自分の家族のことだけでなく、世界のことを考えられるようにしたいものですね。
(写真:「麻婆豆腐」クックパッドより)
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