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#099 「能力の低下か、意欲の低下か」
思えば、この二つのジレンマは「卵が先か、ニワトリが先か」の議論とかなり似ているような気がします。つまりどちらが先でも当たっているような、いや、その逆のような気もします。高齢になるとこの二つはどちらがいつとはなしに始まり、そして気がつけば後戻りが難しくなっています。それを私は実際に自分の父親から感じています。
私は父親に「年齢の割にまだまだできることが多い」と思っていました。それは、まだ杖をついていくらかの距離は歩いても大丈夫であるという身体的な面からであり、また時に私たち息子夫婦も覚えていないようなことを覚えていてビックリしたりする、あまり錆びついていない記憶力の面からも感じられます。しかし、その逆も真なり。とても普通のことがわからなくなっていて驚くことが度々あります。
日用品の在り場所がわからない(そして返却場所がわからない)。自分の食器がどれであるか、今日が何日何曜日であるか、郵便で来た書類の意味、簡単な計算、自分がどこにどのくらいお金を持っているかなどなど数え上げたらとても多くのことがわからなくなっています。
それらは、ちょっと考えればわかるはずなのに「考えられなく」なってしまったのかと悲しくなることがあります。しかし最近私が感じるようになってきたのは、「考えられない」のではなく、「考えることが嫌になっている」のではないかということです。いや、考えることだけのみならず、生活のすべてに対する意欲が失われてきて、それが「能力が失われてきている」ように見えているのでは。そして、そのような生活全般への意欲の低下が、自分のできるはずのことを少なくし、能力がさらに低下するという悪循環に入ってしまっているのでは。
振り返れば、父は若いころは登山やスキーなどのスポーツ、私たちが生まれてからは手先の器用さを生かして、刺繍や革細工や模型作り、ときに絵を描いたりイラストを始めたりととても多趣味な人でした。楽器はハーモニカを続けており、とにかく人生を楽しんでいたように思います。いつも子供が寝てから帰宅したり、三交代勤務や休日出勤をしたりしてバリバリと働く一方、長期の休みにはそれを穴埋めするように家族旅行を計画するような人でした。しかし農家の四男坊として生まれ、幼いころから家の手伝いに酷使されてきた父は、人一倍「人に負けたくない、バカにされたくない」という気持ちが強く、自分の中に反骨心を兼ね備えた、少し歪んだプライドを隠しもって生きてきたように思います。常に「人に認められたい、称賛されたい」という気持ちが強かったのだと思います。
それが今となっては、父よりも明らかに不器用で、趣味も少なく、甘やかされて呑気に育ち、しかしプライドだけは父譲りで高い息子に「ひとつひとつ指摘されたり注意されたり」しながら、それでも生きなければいけない。否が応でも意欲は低下するでしょう。
朝から晩までテレビの前に座り、自分から気の利いたことを一切しなくなった父の姿を嘆いている息子も、こうやって紐解いていけば、なぜそうなのか、その理由を理解できるでしょう。92歳の父の今抱えている葛藤は、同じ高齢者の中で考えれば「遅咲きの葛藤」と言えそうです。私はそれを「自分の中の老いを徐々に受け入れていき、出来なくなってもわからなくなっても抗わない」という一種の反面教師のように教訓とすることも出来ますが、いや、そうではなく「今の父のありのままの葛藤を理解し、少しでもできる能力をほめたたえ、そして感謝する」という対応策のための教訓とすることのほうがよさそうです。きっと。
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