#049 「人が人を批判するということ」

今朝、あるスーパーに買い物に行きましたが、レジのところに「スタッフが座って対応したり、途中で水分補給をしたりさせていただくことがあります。どうぞご了承ください」という張り紙が貼ってありました。違和感を感じました。これってわざわざ告示することかなあ。これはまさしくクレーム対応で、先に先に守りを固めているということでしょうね。テレビで時々流れるテロップ、「あくまで個人の意見です」「諸説あります」「これから真実を正しく伝えるために○○の映像が流れます」とか出てくると「あ~また出してる」と思います。まさしくクレーム先取り対応ですよね。クレームが来れば、「申し訳ありません。一応、テロップでお断りしていましたので」という対応マニュアルが作られているのでしょう。

うーん・・・しかし私はこのブログで「小さいことにクレームするクレーム体質」を批判するつもりではありません(また、それを神経質に先回りする体質を皮肉るつもりもありません)。なぜなら、それこそ、その人その人の価値観は80億通りありますし、それは「クレームするに価するのか、価しないのか」を決めることにも当てはまると思うからです。また、クレームする、しないは、その事象を受け取った人が、その時にどんな感情だったのか、どんな環境にいたのかにも、左右されると思います。たとえば、暑くてイライラしていたり、他人に叱られてやけっぱちになったり、ひとつの八つ当たりのようにクレームすることもあることでしょう。

さて、クレームと言えば、ひとつの個別の社会行動ですので、ここから先はもう少し大きくまとめて「批判する」という言い方にすることにします。

人がどうしても、その人の行動を許せない、その制度が許せない、その人が好きになれないなどというのは、外部や他人からコントロールできるものではないし、また逆にコントロールされるべきではないと思います。どうしてもそういう気持ちになるのは仕方がないことです。そういう気持ちになるのには、いろいろな背景や理由があると思いますが、今の日本で言えば、そのひとつは「コンプライアンスの暴走」かと思います。コンプライアンスは、企業には必要なものですが、普段の社会生活の中でも必要かと思います。それを曲解とは言わないまでも、それだけが暴走してしまい、それに従うか従わないかだけが基準になってしまうと、非常に住みづらい世の中になってしまう気がします。

しかし、そこも含めて、それでも「人を批判する」、あるいはそういう気持ちを持つということは仕方がないとあえて言います。問題はそこから先です。批判をするなら、必ずその人に「差し」で向かい合って伝えなければならないということです。それが原因で喧嘩になっても仕方がありません。売った喧嘩は(まあ批判がすべて喧嘩を売るわけではないのでしょうが)ちゃんと売った人が回収しないといけないでしょう。そして、対面で伝えることができなければ、最低、直接メールするとか、手紙を出すとかで伝えるべきかと思っています。

一番ダメなことは、ネットの世界でしかも匿名で批判して拡散させ、それでうさ晴らしをする、また、した気になることだと思います。それは、批判する側の責任を果たしていないし、問題の解決にまったくなっていないと思います。オンラインを利用しても、自分の名前や身分をちゃんと名乗って、「なぜそれが批判されるのか」の理由をちゃんと述べればいいのですが。

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