#034 「二宮金次郎事件」

その学校では、よなよな二宮金次郎の銅像が校庭を歩き回っていました・・・という話ではありません。発端は、昨夜ローカルニュースで、「県内のとある中核市で、廃校になる小学校の『二宮金次郎』の銅像が競売にかけられ、ある会社経営者が55万円で落札した」ということを聞いたことでした。そこから、私が「二宮金次郎は大人になって誰になったか知っているか。福沢諭吉になり有名になったんだ」という話を家族の中で得意満面にぶち上げ、家族のハテナ顔を招いた挙句、ネット検索で事実でないことがわかり、大恥をかいたという話です。

 というか、いまだに私は「ネット情報が違っている」「なにかの陰謀が起こっている」と疑り続けています。二宮金次郎は成人して福沢諭吉になった。二宮金次郎が二宮尊徳と改名したのは知っていましたが、豊臣秀吉のように何段階かの改名を経て福沢諭吉になったはずだ。そうに違いない。そうだ、そうに違いない・・・・

 そもそも、このような「大いなる勘違い」はどこから起こるのでしょうか。いつ、そのような情報がすりこまれたのかは定かではありませんが、物心がつたころからそう思っていたに違いありませんので、かれこれ60年近くの「大いなる勘違い記憶」と言えます。依然として、この60年来の記憶を信じようとしていますが、それと同時に、某A通販サイトで「認知バイアスの教科書」という本をポチリました。その理由が科学的に証明されないと悔しくてたまらないからです。

 これとは少し性格が違いますが、私は自分でも「思い込み」がかなり強いと思っています。それもかなりの自信をもって思い込みます。以前、テレビ番組で、何組かのご夫婦を対象に、過去の共通のエピソードを思い出すクイズをやっていました。カップルのどちらも、ほとんどが自信満々に答えていましたが、実際は、ほとんどの夫婦に「記憶のずれ」が発生していたのです。とても興味深い内容でした。このように、過去の記憶は、なにかの弾みで誤った記憶に上書きされてしまうというようなことでした。あたかもその上書きされた間違った記憶が最初に起こったエピソードそのもののように強固に記憶に根付いてしまうというようなことだったと思います。

 自分の「ぜったい」記憶が、実は事実とは違うことがあるということに気づき始めたのは、まだここ数年くらいのことです。そこから、私は自分の「ダイヤモンドのように硬い自信」を少しずつ軟化するようにしています。「自分の記憶していることは、ひょっとしたら間違っているかもしれない。だから『ぜったい』という言葉を使うのはやめよう」と。事実、「あのときはこうだったよね」というのを家族は「いやああだった」ということがあると、家族の方が合っていたという話は最近結構あります。プライドの高い私は、相当悔しい思いをしますが、きっと記憶が目まぐるしく上書きされているんだろうと諦めることにします。あまりなぐさめにはなりませんが。(銅像写真出典は報徳博物館のもの、ネットフリー画像より)

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