#033 「情報の耐えられない重さ」

先日、ひょんなことから「存在の耐えられない軽さ(The Unbearable Lightness of Being)」というプラハの春を題材にした映画のことを調べていて、この映画はアメリカ映画であることに驚きました。てっきり、東欧のどこかの国の映画だと思っていました。この映画はシンガポールで「初めて女性の裸体が映る」映画として話題になり(それまでは、露出はすべてカットかぼかされていた)昼間から団地のおっちゃん、おばちゃんまで行列を作って鑑賞した作品で、もちろん当時シンガポール在住だった私たちも列に加わって観ました。内容はよく覚えていませんが、暗く重い映画だったと記憶しています(そして長い)。今日のタイトルは「情報の耐えられない重さ」です。もちろん映画のタイトルにひっかけました。

毎日送られてくる国内のニュース、世界各地からのニュースを見聞きしていると、沈鬱になります。戦争、気候変動、自然災害、犯罪、物価上昇、政治家がたたかれる様子。マスコミはその中から少しでもいい部分を抜き出したいという努力も見られないではないですが、そのとってつけたような報道が却って回りの悲愴を浮き立たせている気もします。いえ、明らかに焦点を当てているのはネガティブなほうだと思います。何故なら、そちらのほうがリスナーは興味を示すからです。

では、今はそんなに過去に類のないほど惨憺たる救いのない時代かというと、気分的にはそう感じざるを得ませんが、冷静になって考えると、人類の歴史の中にはもっともっとひどいことで溢れかえっていたことが分かります。関ヶ原の合戦のすぐ後に起こった慶長の大地震などふくめて、過去には関東大震災級の地震や、また台風などの自然災害も多く記録に残っています。国家や民族同士の戦争はもっと多くの犠牲を伴うものでしたし、迫害、差別、疫病、犯罪など、悪質だという意味では、むしろ今よりも悪質だったのではないでしょうか。犯罪の数自体はむしろ減ってきているはずです。なぜなら、今は犯罪の多様化が進むにつれて、逆にそれを押さえようという「コンプライアンス」というものもが、形式的ではあれ強くなってきているからです。

では、なぜ今の世の中は、そんなに酷く悲観的に映るのか(少なくとも、この世はバラ色という人はそうそういないと思います)。それは、「情報伝達のスピード」がとても速くなり、その質も高くなってきたことにあると思います。そして、その質はよくなっても、中身の多くはマスコミや一部のインフルエンサーという大きなものに操作されている、あるいは、操作をするという明確な意図はなくても、その影響力が異常に強くなり、人々は自ずと影響されてしまっているということかと思います。

フィッシング詐欺の被害総額が毎月増えていると聞くと、世の中は詐欺で溢れかえっている気になります。高齢者のドライバーが子どもをはねたというニュースが続くと、高齢者はすぐにでも免許証を返上すべきだという気になります。児童を盗撮して逮捕されたというニュースが続くと、あの人もこの人も盗撮しているんじゃないかという気になってしまいます。マスコミが情報操作をしているとまでは言いません。しかし、今の世の中、情報の一つ一つが耐えられないくらい重くなってきていて、それがどれだけの影響力があるかは考えるべきなのではないでしょうか。

要は、ニュースを送る側も受け取る側も、もっと「整理」して、「意味をよく考える」ことが必要なのかなと思います。

で、今日はこれはコラムだったのでしょうか、ブログだったのでしょうか。うーむ、その境界線上で微妙ですね。まあ、あまり深刻に考えずにブログにします。え、もっとちゃんと考えろって?

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