#032 「これが私の生きる道」

よく「多才ですねえ」と言われます。穴があったら入りたくなります。まずもって「多才」の裏には、複数の才能に恵まれているという意味があると思うのですが、私の場合は確かに複数のことを行いますが、どれも大成した感じがしません。それどころか、人並み以上とさえ言える気がしません。英語、その他の言語、音楽、ギター、福祉、介護、そして漫画を描くこと、いろいろやりましたが、どれをとってもそうではないかと自戒を込めて言えます。

私は、とにかく興味をもったものに迷わず挑戦してみる図々しいところがあります。それは趣味の域だけではなく、仕事でもそうですので、自分の生きる道はすべてそのような挑戦と方向転換の繰り返しだったのかもしれません。そして、その方向転換の都度、文句も言わずあと押しをしてくれた妻には感謝しかありません。

最近よく思うのは、一本の筋を通してやり抜けば、ひょっとしてなにかは大成したかもしれないということです。世の中で成功している人の多くは、おそらく一本、筋を通して生きてこられたんだろうと思いますし、その中でも、ほんの一握りの人が大成し、「逸材」と呼ばれ、「世に著名な人」になられたのだろうと思います。「逸材」や「著名な人」になりたくなかったとは言いませんが、一本に絞り切れなかったので仕方ありません。

振り返ると、私はまだ幼児のころ、母親が近くで家事をしながらいつも唱歌を歌っていた(らしい)ので、先ず耳がよくなり、歌を聞いたらすぐ再現できるようになり、テレビで流行歌を追いかけては歌うようになりました。聞く音楽のジャンルは、中学ではフォークソング、高校では映画音楽、クラッシック、ポップスと変遷しました。映画音楽を聴きながら、映画という世界に魅了され、安い名画座に通うようになりました。

高校の高学年のころから何故か古典と英語が得意になり、「英語を話して世界で活躍する姿をイメージ」することが多くなり、大学は外国語学部一本に頭が固まってしまいました。しかし大阪外国語大学に無事入学すると、語学の勉強よりも、ギター部の音楽クラブ活動がくらしの中心になってしまい(登校して部室に直行して、部室から帰宅するというような)、一年留年したのち、音楽を追求するため、大手楽器製造会社の河合楽器製作所に入社し、海外事業本部に配属されました。

河合楽器での5年目に海外赴任をし、シンガポールの拠点を任され、しばらくは回りの東南アジアの国々を汗だくで楽器を売りながら営業行脚する毎日でした。その時、よく大真面目に「音楽は趣味にするのと仕事にするのでは全然違う」と嘆いていましたが、当たり前ですよね。若気の至りです。まあとにかく深慮が足りなかったのです。

海外拠点の長を11年務めた後、会社から非難を浴びながら現地で退社し、日本語学校を立ち上げて5年間、学校経営と日本語教授を不安にさいなまれながら行ったあと、母親の病気の関係で帰国しました。「後ろ髪を引かれる思い」というのではなく、学校経営に身も心も疲れてきたころで、「タイミングが合った」というのは確かです。

帰国してからは、妻の勧めで入った介護の業界で一筋でした。介護福祉業界に入ってから来年で20年、私にしては長く続いた方でしょう。やはりそれくらいの魅力があったのかもしれません。この分野はこれからも手を変え品を変えながらも続けていくでしょう。

以上のように生きてきました。思い返せば、私は自分の本当に好きなように、気持ちと好奇心の赴くままに生かさせてもらってきたと思います。しかし、ひとつだけ自負するところがあると言えば、それぞれの「道」の中では、手を抜くことなく精いっぱい努力してきたということかと思います。なぜなら、その過程でほんのわずかでも「自分の成長」を感じることは何ものにも代えがたい喜びだったからです。そして、それぞれの「道」の中で、それを極めたいという思いは間違いなくありました。「これが私の生きる道」です。

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